本陣の歴史

「本陣」の由来

私たちの屋号である「本陣」。実はこの「本陣」という名前の由来は、江戸時代にまで遡ります。
時は17世紀初め。関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、東海道に53の宿場を設定し、旅程の目安となる一里塚の設置や関所の設置、架橋の禁止などのきめ細やかな交通政策を行いました。三代将軍徳川家光の時代になり、参勤交代が始まると、京都と江戸を結ぶ東海道はますます重要になりました。諸国大名の宿泊する旅舎が要求されると、幕府は大名をはじめ、勅使・院使・門跡・公家・旗本などの宿舎を指定。この宿舎こそが「本陣」と言うのでした。本陣と名付けたのは、武家は常に軍旅にある気持ちでいなければならず、その主人の居る所はいつでも本陣である、という意味から転じたものだそうです。
藤枝宿のイメージ画

藤枝宿と本陣

さて、本陣の歴史を語る上で、藤枝宿の存在を忘れてはなりません。
品川から数えて22番目の宿場にあたる藤枝宿は、江戸より49里30町44間(約200km)の位置にありました。宿の全長は19町12間(約2km)で、西入口の川原町と東入口の左車町には木戸と番所があり、役人が見張っていました。天保13年(1842年)の図によると、当時の藤枝宿には上伝馬問屋場(宿役人の詰所)の東隣に上本陣・青島家、1軒おいて更に東隣に下本陣・村松家の2軒がありました。この下本陣・村松家こそが、私たちの祖先である「村松伊右衛門」であり、今日の八百屋・本陣のルーツなのです。
参勤交代のイメージ画

下本陣・村松家

上伝馬の本陣とは、現在の藤枝市藤枝4丁目の「おたけせんべい」さんの辺りにあったとされています。前述の通り、本陣とは大名の宿泊する特別な旅館であるため、それを経営する主人は、武士に近い身分として扱われる苗字帯刀を許されていました。
また、現存する間取図からも、その規模の大きさを伺うことが出来ます(総構…表間口11間、奥行32間/総坪数…345坪/総畳数…201畳)。表には門構で広い玄関があり、奥まった座敷は上段の間と言って、一段高く座敷が作られ、大名の居間となっておりました。大名の御投宿という時は、本陣の主人は1町ほど出迎えに上がったそうです。そして給人格となり、お目見えと言って拝礼を許されることもあったとか。私たちの先祖たちは、諸国の大名を前にどんな表情をしていたのか、どんな言葉を交わしていたのか……とても気になる所です。
下本陣の間取図

その後の本陣

さて、大政奉還により江戸幕府が消滅すると、参勤交代制度も姿を消しました。その後、下本陣も火事により消失してしまったため、現在はその姿を見ることは出来ません。ですが、諸国の大名御一行を迎え入れ、旅の疲れを癒しながら、そこに泊まる一晩をより良いものとしてもらうための「おもてなし精神」は、村松家の遺伝子にしっかりと受け継がれていることと思います。時は流れ、昭和初期にリアカーに野菜を積んで売り歩くようになり、その後現在の場所へ店舗を構えて再び「本陣」という看板を掲げるようになると、旅館と八百屋の違いはあれど、そこに来られたお客様との対話を大切にし、そのひと時をより素晴らしいものとしてもらうための取り組みを、八百屋として行うようになりました。
藤枝という歴史ある宿場町の旅館からスタートした本陣。その歴史は、まさに地域と共に歩み、そして地域と共に成長してきたからこそ、今日も八百屋として、その看板を掲げられていると言っても過言ではありません。21世紀となった今も、そしてこれからも、藤枝という地域に住む皆様と共に時代を歩みながら、八百屋としての看板を守っていきたいと思います。
本陣の従業員たち